現代短歌社

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現代短歌社の主催事業のご報告。

パネルディスカッション

那覇市でパネルディスカッションを開催

現代短歌社はパネルディスカッション「分断をどう越えるか~沖縄と短歌~」を開催し、パネリスト、報道関係者を含め県内外から78名がつどいました。

日時
2018年6月17日(日) 13:30〜17:00
場所
那覇市IT創造館(那覇市)
プログラム
基調講演「沖縄の短歌 その可能性」吉川宏志
パネルディスカッション
「分断をどう越えるか~沖縄と短歌~」
パネリスト 名嘉真恵美子・平敷武蕉・屋良健一郎
司会 吉川宏志

「誰が橋を架けるのか」
加藤英彦

 

6月17日、現代短歌社主催のシンポジウム「分断をどう越えるか~沖縄と短歌~」が那覇市IT創造館で開かれた。猛暑のなか当初の予定を大幅に上回る80名近い参会者を得て会場は熱気に包まれた。
吉川宏志氏による基調講演「沖縄の短歌 その可能性」の後、パネルディスカッション「分断をどう越えるか~沖縄と短歌~」が続く。パネリストには名嘉真恵美子、屋良健一郎、俳人の平敷武蕉の在沖三氏が登壇、吉川氏がコーディネーター役を務めた。

・痛みを分かち合ひたし合へず合へざれば錫色の月浮かぶ沖縄   佐藤モニカ

沖縄に移住した作者が沖縄の痛みを分かち合いたいと思いつつ、分かち合えない苦悩の濃さが滲む一首だ。吉川氏はそこから「痛みは分かち合えるのか」というテーゼを引き出す。作品の鑑賞からはやや離れるが、「分断をどう越えるか」という全体のテーマに引きつけて考えれば、この痛みを分かち合いたいという希求の切実さの中に分断を越えて繋がろうとする静かな意思と可能性とを私は感じる。短歌は省略の文学であるとよく言われる。省略しても伝わるのはそこに共有する文化や言語空間があるからであり、沖縄と県外との意識の乖離については、省略をせずに言葉を丁寧に重ねていかなければ伝わらない何かがあるのではないかと吉川氏はいう。貴重な指摘である。

私は「分断」という語にはある作為的な力の作用を感じるが、シンポジウムではむしろ作品の読みの断層や認識のズレに言及したものが多かったように思う。それも広い意味での分断と捉えるのならば、読みの多様性のなかで沖縄の歴史や文化に触れ、互いの理解を深め合うことも“分断”を越えるための大切な回路となるのだろう。

・墜落のニュースをききて今日もまた狂わんほどに空ばかり見る   玉城寛子

飛来するオスプレイに個人の力は抗すべくもない。背後には何か途轍もなく大きな力が動いている。そしてまた墜落するのだ。「狂わんほどに」とは、まさにそうとしか言えない胸かき毟られる口惜しさだったろう。それは名嘉真氏もいう作者固有の感情表出である。

・米軍基地があるゆゑ安全といふ神話神風信じたやうに信ぜよ   国吉茂子

直截的である。かつて神風を信じたあの悲惨な結果に思いを致せと作品は語っている。この逆説を真正面から投げつける力強さが、沖縄の現在をそのまま象徴している。

・次々と仲間に鞄持たされて途方に暮るる生徒 沖縄   佐藤モニカ

会場を巻き込んで意見の分かれた作品である。次々と鞄を持たされる生徒は、膨大な基地負担を強いられた〈沖縄〉そのものだろう。その構図の巧みさを認めつつ、沖縄が歩まされた歴史の悲惨を思うときこの比喩は余りに軽すぎるのではないかという批判だ。それは痛みの血を流していない説明的な作品だという。

一方、沖縄の今を象徴的に捉えた関係性の分かりやすさが多くの読者を捉えるのであり、そこにはアプローチの多様性が保障されるべきだとする意見がある。前者の見方に首肯しつつ、私は後者の意見に近い。沖縄の痛みを伝えることの大切さを思いつつも、全てを一義的な尺度に還元することが“分断”の架け橋を奪うことに繋がりはしまいかと案じるのだ。ただ、構図の単純化が分かりやすさと引き換えに複雑な現実を掬いきれないことも確かであり、その意味からもこうした論議の深まりは歓迎されてよい。他にも沖縄の方言を短歌に用いることの風土性と伝達性の問題、スローガン的な反基地の類型歌から実感に支えられた現場性への脱皮など話題は多岐に及んだ。そして閉会間近に「私は基地容認派です」と発言した十代の少女が印象に残っている。基地に関わる短歌を詠いづらいという彼女にとっての言語環境にも分断の影は濃く差しているのだ。全体を通して感じたことは、沖縄を詠う短歌の多くは今の沖縄の現実を知らせたいという強い思いに支えられていることであった。果たしてその受け皿として県外の私たちは十分に応えられているだろうか。そんな問いが重たく残った。

現代短歌社新聞 2018年8月号より一部改変

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