感電しかけた話
伊舎堂仁
機微と構造 染野太朗
・この津波による絆の心配はありません次はスポーツです こういった歌の批評の鋭さやわかりやすさは見過ごせないし、また、本歌集のタイトルや、 ・J・D・サリンジャーの亡くなった理由でも言おうかな 老衰 といった歌に現れた、お笑いやSNS経由の言葉遣いと呼吸に何らかの意味を見出したり、カウンターカルチャーの影響を指摘したりすることもできるとは思うが、そこに時代の典型を読み取るような視点だけでは、この歌集には近づけない。 ・おれが朝シロハラクイナをはねたときシロハラクイナをせめた母さん 結句に至ると、シロハラクイナの存在感もそれを撥ねたことも後景に退いてしまい、母親の性質とそのような母親に対してあり得る「おれ」の心情が唐突に浮上する。その上、なんとなく、意図的に撥ねた可能性さえ想像したくなってくる。 ・一睡もしてない、みたいな一滴も飲んでない、の言い方が要る 疲れをむしろ鼻にかけるような発話を「一滴も~」の言い方に重ね合わせ、それが「要る」と判断し、相手に言う、ときの心情やその関係性。 ・外出たら仮病つかって休んだ日くらい晴れてて の中 いった この、直に「の中」を接続させるような独特の統語が本歌集には頻出するが、そこにはいつも、状況や心情を半ば自動的に俯瞰し「その状況も心情もつねに何らかの構造の一部なのだ」と指摘するような手つきが見える。 歌集中の散文も含め、状況や心情や関係性の機微に対する感度が異様に高い。肝心なのは、その感度が発動するのはどうやら、何らかのステレオタイプな構造に自他が巻き込まれたときらしいということ。なんて息苦しい歌集だろう。 (現代短歌新聞2022年5月号掲載) *『感電しかけた話』は書肆侃侃房刊
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